君は、桃中軒雲右衛門という浪曲師がいたことを知っているか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3000)】
チョウトンボ(写真1~4)、ノコギリカミキリ(写真5)をカメラに収めました。昨日、シラホシハナムグリと思われる個体を撮影した樹木を再び訪れ、樹液に集まっている、背面の白紋が昨日のとよく似たハナムグリを3匹捕まえました。シラホシハナムグリ(写真6~11)とシロテンハナムグリは似ていて識別が難しいが、嫌がる撮影助手(女房)の助けを借りて、3匹の後翅が黒色であること(シロテンハナムグリは茶色)、頭部が直線的であること(シロテンハナムグリは凹型)を確認しました。これらは撮影後、放ちました。生物に造詣の深い観察仲間から教えられたとおり、オニユリ(写真12、13)には零余子(むかご)ができています(似ているコオニユリは零余子ができない)。ハス(写真14、15)が咲いています。
閑話休題、私が子供の頃は、しばしばラジオから浪曲が流れてきて、意味がもう一つ分からない箇所があっても、その調子のよさに身を委ねたものです。
『<声>の国民国家――浪花節が創る日本近代』(兵藤裕己著、講談社学術文庫)のおかげで、浪花節について、いろいろ学ぶことができました。
その一つは、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)という人物を抜きにして、浪花節の歴史は語れないこと。また、その厳めしい名前とは異なり、本書の表紙に使用された写真では素朴な青年に見えること。「花田清輝は、桃中軒雲右衛門の浪花節から感じられる一種独特の『悲憤慷慨調』が、明治10年代の演説流行時代のなかで形成されたことを述べている。雲右衛門が少年時代をすごした明治10年代は、自由民権運動のもりあがりのなかで、わが国において政治演説のスタイルが確立した時代だった」。
「明治20年代は、10年代までの自由民権運動が大きく屈折・転換していった時代である。旧自由党の主流派が議会政党としてブルジョワ化するなかで、かつての急進派・激派のすくなからぬ部分が、議会政治からとりのこされた大衆のルサンチマンを吸いあげるかたちで、右翼浪人となってゆくのだが、そのような明治20年代は、浪花節が大衆芸能として台頭した時代でもあった。浪花節のメロディアスな声と、それが鼓吹する制度外のファミリーのモラルが、政治から疎外された大衆の共同性をからめとってゆく。法制度のロジックを吸収・解体してしまう声は、現実のヒエラルキーにたいする暴力的な破壊の気分すら醸成するだろう。明治20年代に講談・落語と競合するかたちで寄席芸としての地位を確立した浪花節は、30年代になると、講談・落語の人気を圧倒するようになってゆく」。
「浪花節という『下等の演芸』にたいする嫌悪感は、当時の上中流を自任する知識層が共有していた感情である。そのような『下劣』『野卑』な浪花節が、東京・大阪など大都市圏の『俥夫、職工、仲仕等』『下級労働者』のあいだに浸透してゆく。大道芸に出自をもつ浪花節は。もともと巡業・旅まわりを基本的な興行形態としていた。旅まわりの芸人が語る浪花節は、鉄道という近代の交通メディアによって、かつての祭文やチョンガレとは比較にならないスピードで全国に流行してゆく。そして日露戦争前後の空前の浪花節ブームとなるのだが、ブームの立て役者となったのが、桃中軒雲右衛門である」。
「雲右衛門の語りの特異さは、かれが材をえたと思われる講談と比較すれば、いっそう顕著である。・・・(いわば散文的に)物語をふくらませる講談にくらべると、雲右衛門の語りはひたすら大石(内蔵助)の苦衷に焦点をあて、講談の冗舌さをてぎわよく抜き読みしたようなかたちになっている。・・・つねに聴き手を意識しながら、物語内容を客観的・第三者的に説明してゆく講談にたいして、語り手と聴き手とがひとつの物語世界のなかで同化するような雲右衛門の特徴はあきらかだろう。・・・雲右衛門のメロディアスな語りと、それがひきおこす津波のような喝采の嵐が、大劇場をうめつくした人々を異様な陶酔と昂揚感へまきこんでゆく。聴衆を声の共同体の世界へからめとるのは、雲右衛門という声の芸人が身につけた天賦の技術だった」。
著者は、当時の浪花節と「国民」という観念との関係にも言及しています。「かれらのアジテートする擬似的ファミリーの物語が、社会からとりのこされた下層の大衆の共同性をすくいあげてゆく。そして注意したいのは、日本近代の『国民』という観念は、そのような大衆社会に流通・浸透した物語と不可分に形成されたということだ。天皇を『親』として受容することで、天皇の『赤子』としての国民の平等・解放幻想がもたらされる。・・・いわゆる『日本固有の義理人情』を語る物語は、日本型ファシズムの形成の問題と微妙にクロスするのである」。
学びの、もう一つは、昭和時代にも浪花節ブームが起きたこと。「関東大震災をへて、昭和初年の金融恐慌、さらに大恐慌へ突入する時代あたりから、浪花節の流行は新しい局面をむかえることになる。ラジオという新時代のメディアが登場したのだ。・・・二代目広沢虎造の『清水次郎長伝』、二代目玉川勝太郎の『天保水滸伝』、寿々木米若の『佐渡情話』、三門博の『唄入り観音経』などが一世を風靡したのは、この時期である」。
「明治20年代の国民国家の成立期から、昭和20年の敗戦にいたる60年間は、浪花節流行の60年間だった。日本近代の国民大衆について考えるには、浪花節という声の文学の問題をさけてとおれない。いわゆる浪花節的な感性とモラルは、ポスト近代の21世紀にあっても、依然として現時点的な『国民』の問題でありつづけるのである」。
実際に雲右衛門の浪花節を聴きたいと思い、ネット検索したところ、明治45年発売のライロフォンのSP盤「大石東下り」に辿り着くことができました。二代目広沢虎造の「清水次郎長伝」も聴くことができました。